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コトコト日記


自信はどこからくるのか

 自分を信じるとか自己肯定感とか、ふわっとしていて眩しい言葉は実物よりも大きく見えがちで、なんだか苦手であまり近づけなかった。

 が、しかし、そこ、見て見ぬふりしたままだと生きづらいということがわかってきて重い腰を上げた。

 自信も肯定感もありそうな人に話を聞くと、大抵そこには根拠なんか無く、標準装備?と思わざるをえない。でも、失ったものには根拠がある。そう!多分、失ってしまったのだ。初めからなかったわけではないのだと思う。

 私は自分の棚卸しをはじめた。やってみればみるほど私はわたしを知らなかった。
 好きなもの、喜び、幸せ、楽しみ、得意なこと、不快なもの、怒り、恐れ、悲しみ、妬み… 全部はっきりしなかった。
自分のことなのに全く出て来ない。何故だろう?
 
 生まれてからずっと見えない束縛に縛られてきた気がする。 最初に出会う他人である母親、次いで家族との関係性の中でその芽は育って行った。
 女の子、娘、妹、〇〇歳、というカテゴライズ、"普通は""みんなは"という見えない世間の目、そこに親のエゴや家族の歴史、愛情に巧みに絡められた圧力、競争、比較、自慢… そこに疑問を抱くと "よそはよそ!"と折りたたまれた。

 選択権がなかったわけではないが、批判への耐性と論破するだけの正当性や熱意が必要だったが、全てにおいて未熟だった私はわたしを守ってあげられていなかった。緑は青に、オレンジは赤に、グレーは黒に塗り替えてやり過ごした。
もっと複雑で多様で変化に富んだ感性を持っていたはずなのに。

 "ああ、私はわたしのことをちゃんと見て聴いて欲しかったんだなぁ"と思った。私はわたしを知らないから、不義理を働いてきたから、後ろめたさもあって自分を信じられないのだなぁと。

 私はわたしのことを他の誰かと一緒にされたくなかった。勝手にひとまとめにされたり、良い方や高い方や美しい方を選ばされたくなかった。
 ヘンテコでも大変でも残念でも醜くても、自分が自分で選ぶものに出会いたかった。
 感情が溢れてくると不安の奥深くに怒りを見つけた。

 頭で考えたことで判断する癖をちょっと休ませて、身体が心地良く感じること、心がほっと緩むことを少しずつ見つけている。
 自分に問いかける時間を大切にしたり、自分とただただ一緒に過ごしたり、ひとりでは届かないところは他人に聴いてもらうことで思わぬ発見をしたり、ゆっくりと自分からの信頼を取り戻している。

 こうやって書くこともその一つ。整理されると風通しがいい。

 つづく
自信はどこからくるのか_d0177251_10072745.jpeg




# by ise-cocotte | 2023-07-25 09:13 | 日々のこと

自信がみあたらない

前回の記事で書いたように、ひとの顔色を無意識に伺っていた自分に気付けたはよかったが、いざそれをやめようと思っても何から手をつけて良いかわからない。

そこでひとの顔色をみるということの本質について考えてみた。

"ひとの顔色をみてした選択は自分の選択ではないのか?"
という問いがまず立った。
どれだけお金を積まれても、どれだけ脅されても、力ずくでも、選択は本人以外にはできない。
とは頭ではわかっている。
だがしかし、自分の選択や決断には結構なエネルギーが必要で、しかもその結果の責任は自分でとらなければならない。
幼い頃はそんな事考えもしないし、知りもしないから親の言う事が正しいと思いこんでしまったり、後始末や責任は一見親が取ってくれたりするので自分には選択権など無いように思うこともあるだろう。
そして、だんだんと自分で感じたり思ったりしたことを軸とする選択よりも、親経由の選択の方がどうやら風当たりが穏やかだし責任を取らなくても良いぞ。と、自分の感性スイッチをoffにして楽に生きようとしてしまったが運の尽き、自分で選択した意思や動機がないまま上手く行っても失敗してもどちらにしても自分のおかげでも自分のせいでもなく、喜びも責任もどちらも手放してしまっていることにはなかなか気づけないまま大人になった。

失敗からしか学べない。
と、本当に思う。
私は満足に失敗すら出来なかったのだ。
たくさんの失敗をひとのせいにして、同じくらいの上出来なことを自分の力ではないと思っていたということだ。

やってもやっても自信がない。
自分の決断は正しいのか間違っているのか考え続けてあちこちする。
自分の選択の責任の取り方がわからないのだ。

自分を信じるって何?

である。

ここまで来ると、読んでいる人はちょっと辛い気持ちになったかもしれないが、安心していただきたい。
今現在、もうここにはいないからだ。
頭で考え、ぐるぐると同じ場所を触り続けることでは抜け出せない時にはアウトプットがいいと聞いてこの文を書くことにして本当によかった。一旦自分の外に出して眺めると"ほほぅ〜"と全貌が見えてくる時があり、それを手放して次に進めるからだ。

次なる問いは自分を信じるには?

これについてはまた次回に。
牛歩ではあるが進んでいる。



# by ise-cocotte | 2023-07-03 08:08 | 日々のこと

関係性のねじれ

そもそもなぜ母と自分を同一視してしまうのか。
という問いについて考えてみた。

そうすると幼少期に遡って考えることになる。
記憶は曖昧だが、私は家族に忖度しながら自分を維持してきたように思う。そうすることが自分の身を守ることであり、幸せに繋がっていると思っていたからだ。
それは母の機嫌が良いイコール自分はハッピー。
という図式を何度も何度も刷り込んできたからなのではないかと思う。
自分の機嫌は二の次で、母や兄の機嫌が悪いと良くない事が起こるからまずは顔色をうかがう。
機嫌が良いとわがままや甘えを許してくれるから、そのループに自ら進んで加担していたのだ。

母の幸せが自分の幸せと繋がっているように思ってしまう思考回路の謎はここにあると思う。
母の機嫌が良いと自分も安心、母の機嫌が悪いと怖くなる。
母が我慢しているなら私も我慢しなければ。
母が幸せでないと自分は幸せになれない。
と思いこんでいた。
もっと言えば母をおいて私は幸せになってはいけないと思っていたのかもしれない。

お互いを幸せにしたいと思っているのに、それがねじれて逆回転になる無限ループだ。

やっとここまで来たぞ。
メカニズムがわかればあとはちょっとずつ解いていくだけ。

これは関係性の問題ではあるが、私の心の中だけの問題でもある。私の考え方の癖を治していけば少しずつ境界線も見えてくるだろう。

癖を治すのは大変だけど、習慣を変えることで少しずつアプローチできる気がする。

まだまだ先は長そうだ。

今はここ。







# by ise-cocotte | 2023-06-30 08:41

幸せの粒子

前回の続きである。

母の幸せと自分の幸せが合わせ鏡になっていたとお話したが、そこにも母と自分の境界線の曖昧さが表れている。

我慢強く耐えた先にきっといつかやってくる大きな幸せというものがどうやら存在しないらしいぞと気付き始めた頃には時既に遅く、私は我慢を我慢とも思わず自分の能力の一つだと勘違いしていた。

母ももちろんその能力はとてつもなく高く、そのスキルは年老うごとに磨かれていくようだった。

私は医療の専門家ではないので本当の事はわからないが、痛みを緩和するために使われる鎮痛剤や麻酔の代わりのように、母には刺激的な物事や味を求めるようなところがあるように思う。
辛いものや甘いもの、冷たいものを好んでいたし、海外旅行や、派手な服装が好きである。感情の起伏も激しかった。
そんな母が手術を受けた。術後、麻酔はもう覚めていて、身体は酷い痛みを感じているようだったが、滑舌が悪くなったり、物忘れが酷く、表情もボヤけて日がなソファで韓国ドラマを見ながら眠りこけている。
自家製造麻酔が脳内に分泌されているのか?
私はとてつもなく不安になった。
痛みや辛さを忘れるために人は刺激を求め、更にその先に進むと自らボケて痛みから身を守るのか?

そんな母を見て、わたしは自分に何ができるのかと考え続けた。"こうしてあげたい、ああした方がいいんじゃないか?"
差し当たっての回答を見つけては、"それって私の都合じゃない?"という問いが新たに立ち上がった。

そんなふうに眠れない夜を過ごして考えていたら、私の身体が悲鳴を上げた。クラクラしてヤバイ。

体調が崩れたら仕切り直しの合図。

最近の自分の取説にはそう書いてある。

実家に帰る約束を断って、今の自分に必要と思われる効能を持った食材とスパイスを使ったカレーを作って食べ、自分の部屋でぐっすり眠った。

眠ると頭は整理され、風通しが良くなる。
"あー、無理は無理を引き起こす"
"自分の我慢はひとの我慢を引き起こす"
母に対して私が思ったように。

人の為は自分の為。ってこれやな。

と。

そう思うと楽になった。
そう思える事が幸せやなぁとしみじみ思った。

通院の日、検査の結果も良好で順調と聞いた母に電話すると、声に張りが出て、明るく楽しそうだった。
聞くと、友達が沢山の食材を買い込んで集まって来てくれたという事だ。"あれ食べちゃダメコレ食べちゃダメ"って言うより、楽しく食べるのって幸せやよなぁ。
と、思うと同時に、かわいそうだと思っていた母は、案外小さな幸せを日々感じなが歳を重ねて来たのではないか?と思えた。

幸せの粒子は小さい(自分しらべ)
荒い感情や騒音、刺激の中では見つけられない。
我慢していたら感じることなんてできないんだなぁ。

私は私で自分を活かして、
母は母を活かして生きられるといいなぁと思えた。




# by ise-cocotte | 2023-06-24 10:34 | 日々のこと

母と娘

母と娘

100人いれば100通りの母娘があるだろうと思うので、どこの家族とも比べようが無いが、わたしから見た母はいつも我慢強くて耐える人であった。そして私はそれが普通だとも思っていたし、かわいそうだとも思っていた。

大人になって親元を離れると、目に入らない家族は架空の家族みたいに思い出のまま歳を重ねていく。そして印象的な出来事だけが強くフラッシュバックするようにわたしの記憶に再び家族の姿を刻みつけた。
母をかわいそうだと思うようになると、現在進行形の母を直視するのが怖くなった。できるだけ関わりたくなかったし、そんな自分に罪悪感を感じていたけれど、母を見ると心臓がドキドキするようになり、具合が悪くなる時期もあった。
そんな時、知人に言われた言葉にハッとした。"お母さんを自分と同一視してるのですね" と。
50も手前の更年期が出始めたころの事である。
そんなこと考えたこともなかった。
確かに…
母のようになってしまうんじゃないかという恐怖感や不安感が日に日に強くなって、母の持病や体質や体型など、全てが怖くなった。
いや、そもそも"母は幸せなのか?"という疑問が怖かった。
それはイコール"自分は幸せなのか?"と合わせ鏡になっていた。

年老いていろいろ介助が必要になってきた母から目を背けてきたわたしは、そんな母とどう向き合って良いのかわからなかった。時々顔を合わせたり、食事に行ったりはするが、すぐ近くなのに実家にももう何年も帰っていない。足が全く向かなかった。

そんなわたしは母の手術入退院をきっかけに、膨らみ続ける恐怖感の源泉を確かめに行くしかないと腹を括って実家に泊まりに行ってみた。

想像より斜め上の老化を遂げている母と時間を過ごし、頭がいっぱいで実家ではあまり眠れなかったけれども、わたしの妄想の中の母に漠然とした恐怖感を持ち続けるのでは少しもわたしは幸せを感じられないということはわかった。
目の前の事実を見ること、自分と母の境界線を見つけること、それは自分と他者の境界線を見つけ、より良い関係性を築くことのはじまりなんじゃないかと思う。

今はまだここ。
次はどんなことを思うだろう。

忘れてしまわないようにブログに綴っておくことにした。





# by ise-cocotte | 2023-06-21 12:57 | 日々のこと


小さな料理店店主の日記。
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